今日の仕事は河口湖円型ホール。初めてのホールは楽しみです。100人程の小さなホールで、
名のとおり円型。河口湖畔にポツンとあって、目の前が富士山。ともかくロケーションは最高!今まで行ったホールの中で、ここを越える景色はありません。老後はのんびり富士山を見ながら、ピアノをこつこつ直して、小さいコンサートホールがあれば尚良し!と思っていたら、何と殆どのものがここにすでにありました!、この景色をすっかり気に入ってしまって、仕事を忘れて、館長と長話(笑)
今日はピアノ持込ではなく、使用するのはホールのハウスピアノで、ボストンです。
10時半調律アップなのに、もう9時50分!!特急で調律を済ませて、今日はフランスのヴァイオリニスト、ジェラルド・プーレのコンサート。
それにしても、巨匠ブーレの弾くドビッシーのソナタは圧巻でした!
この曲は過去に何枚もCDレコーディングやコンサートをしましたが(確か1年前の日記にも、ニューヨークでチー・ユンと録音した時の珍事を書いたと思いますので参照ください、面白いですよ)、この有名な曲、実はドビュッシーがプーレのお父さんの為に書いた曲だということで、ご本人から聞いた貴重なエピソードをひとつ。
1915年当時、ドビュッシーは勿論有名な作曲家だけど、無口で偏屈な人という印象だったそうです。
プーレのお父さんはドビュッシーの曲の演奏を本人に聞いてもらいたくて、手紙を書いたところ、やがてドビュッシーから「それならば家に来なさい」と返事が来ました。喜んで彼の家に行くと、ドビュッシーは部屋の端っこに座って「私はここにいるから、好きに弾いてみなさい」と言いました。緊張しながら彼は演奏をしましたが、弾き終わってもドビュッシーは何のコメントもくれません。思い余って「あなたのこの曲はこういう風に弾くのではないのですか?」と聞いたら、ドビュッシーは「ええ、違いますね。そういう曲ではありません。でもあなたの表現も大事にしなさい。間違いではありませんから。」と言ったそうです。
しかしこの時、ドビュッシーが彼の才能を認めていたということが翌年わかります。
1916年、すでに癌を患っていたドビュッシーから彼のもとに手紙が来ました。
「今、ヴァイオリンのソナタを作曲しているのですが、ヴァイオリン・パートの部分のアドバイスをしてほしい。」という内容でした。その後数回、ドビュッシーの家に通って完成したのが、このソナタなのだそうです。
その2年後、確か1918年にドビュッシーは亡くなりました。プーレの話は、当時の状況がはっきり読み取れて実に興味深いものであり、プーレの弾くドビュッシーのソナタは「まさにクラッシクは残し伝えていくもの」という表現の極みだと思います。
私は10年ほど前に、「ドビュッシーのように比較的新しい作曲家ならば、まだ直弟子が生きているかも知れない・・・」と思って調べたところ、ドビュッシーのアシスタントはマルグリット・ロン(ロン・ティボーコンクール創始者)、マルグリット・ロンのアシスタントが、ジェルメヌ・ムニエだということがわかりました。ムニエはコルトーのアシスタントもしていて、コンセルヴァトワールではラヴェル本人の前で水の戯れを弾いた事もあります。
というわけで、1985年にムニエを招聘し、ドビュッシーなどフランス音楽の正式な解釈を明確にする為に、レコーディングや公開レッスンを企画しました。
当時のCDやレッスンビデオ、インタビュー等は、昨年ムニエが亡くなった事もあり、貴重な宝物になりました。
久しぶりに感動のコンサートで、景色の素晴らしさとも相まって、清々しいしい気持ちで帰りました、やっぱり本物は良いな・・。
だからこの仕事やめられないんだよね。